庚寅記載録

[こういん きさいろく]

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上野彦馬

[うえの・ひこま] 《1838 - 1904》

【別称】
(特になし)

【肩書き・職業】
 幕末・明治の写真家。

【出自・系譜関係】
 父は蘭学者で長崎奉行所の御用時計師・上野俊之丞。
 母は以曽。得馬の実弟。

【履歴・事績】
 天保9(1838)年8月27日、長崎・銀屋町(現・長崎市古川町)にて父・俊之丞の六番目の子として誕生。5歳になると松下文平塾に入れられ、四書五経と書を習う。嘉永4(1851)年、煙硝製造が原因で俊之丞が逝去。長男であった兄が既に早世していた為、代わって家督を継ぐ。嘉永6(1853)年、父の親友・木下逸雲の計らいで日田(現・大分県日田市)にある広瀬淡窓の私塾・咸宣園(かんぎえん。この門下生に高野長英,大村益次郎,清浦圭吾らがいる)に入門。ここで漢学を修めると長崎に戻り、大通詞・名村八右衛門に蘭語を学んでいる。
 やがて日本に通商を求めて外国船が相次いで来航する多難な世相となったのをうけ、幕府命令でこの地に蘭館医ブルクを招き海軍伝習所が開かれる。そのブルクの後任のポンペが海軍伝習所に着任して間もない安政4(1857)年、伝習所傘下にあった医学伝習所に入門。この化学に関する講義の中でフォトグラィー(今日のカメラ)の存在を初めて知り、興味を抱く。以後、写真の研究に没頭を続け、当時の主流であった湿板写真機をもとにポンペと伝習所の先輩の津藩士・堀江鍬次郎の助力で手製の写真機と湿板写真用の感光剤,更に現像に使用するコロジオン液までを全て手作りで完成させている。

 安政6(1859)年、フランス人写真師ロッシュが来日するとその写真技術の緻密な精度と芸術的な記録性に感服し、当人から直接指導を仰ぐ。この時期、同門の堀江の話から写真に関心を持った津藩主・藤堂高猷(たかゆき)が最新式の人物用写真機(レンズは当時最高級だった英国製ダルメーヤB三類手磨き)を購入。万延元(1860)年、堀江と共に藤堂の命令で江戸へ出向し、大名や旗本、姫君らを撮影。文久元(1861)年、藤堂の要請により、堀江と共に津の藩校・友造館で蘭国語のほか舎密学の講師となり、このとき日本初の「舎密局必携」(全編三巻)を著す。
 文久2年、友造館を離れて途中京都を経由して長崎に帰郷。暮れに中島川畔にて「上野撮影局」を開業。当初、客は外国人に限られていたが、徐々に日本人の客=特に若き無名の志士たち(勝海舟,桂小五郎,伊藤博文,高杉晋作,中岡慎太郎,大隈重信)などは得意客となった(あの余りにも有名な坂本龍馬の「肖像写真」も、彼の手による)。
 明治10(1877)年、熊本県令北島秀朝より西南戦争の戦跡撮影を依頼。同14年、以前から継続していた印画法の改良と、西欧で一早く発見された乾板写真の研究に没頭。その間、丁汝昌,グランド米国将軍,ニコライ2世露国皇太子など、国賓級の人物の撮影を行う。日露戦争が勃発した明治37(1904)年5月22日、長崎にて逝去。享年67。私生活では艶福家であったともいう。長崎市伊良林3丁目4番に墓がある。
[ 2012/03/10 22:21 ] 歴史人物 | TB(0) | コメント(-)

徳川家康 (9/9)

[元和偃武]

 しかしながら大坂城中には依然として不穏な動きが絶えず、3月には戦備増強が露見すると4月6日、諸大名に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じている。26日に豊臣軍が大和郡山城を落城させると京都二条城から星田に出陣(5月5日)。6日、豊臣軍との道明寺の合戦で後藤基次ら有力な諸将を何名も討ち取り、退却に追い込んだ(「大坂夏の陣」)。翌7日、決戦の場が大坂城南方の茶臼山,岡山付近に移ると幕府方の本多忠朝が毛利勝永に壊滅させられ、小笠原忠脩が大野治房に討ち取られるなど豊臣軍の猛攻の前に劣勢となり、真田信繁の軍が本陣近くまで攻め寄せてくる一幕もあった。このとき馬で平野へ脱出した家康は一時自害を覚悟したという。
 このときの戦闘で一定の戦果を挙げた豊臣軍であったが損害も多く、また松平忠直、井伊直孝らの活躍や数に勝る幕府軍の反攻により徐々に追い込まれ、やがてその残留勢力も事実上壊滅した。8日の豊臣秀頼と淀君らの自害を以て豊臣家は滅亡し、戦いは幕を閉じた(12月26日、論功行賞)。7月9日、秀吉の廟のある豊国神社の破却を命じ、祭神秀吉を仏に降格させた。13日、元和改元(「元和偃武」)。9月9日、朝廷に禁中並公家諸法度を、諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令をそれぞれ制定し幕府との関係を厳格に規定した。以後は自身の老いもあってか、日課念仏に精を出したという。

 元和2(1616)年1月21日早朝、駿府城を発駕して郊外の田中へ鷹狩りに出かける。その深夜、宿泊先の駿府藤枝の田中城にて腹痛を発症。先日の夕食に出された鯛の天ぷらにあたったといわれている(一説に茶屋四郎次郎から奨めたゴマ油で揚げた鯛の天ぷら、もしくは鯛の南蛮漬けとも云われる)。診察にあたった医頭の片山宗哲は腹中にしこりを確認し癪(さしこみ)、即ち胃癌の疑いがあると診立てたが、若い頃から薬の調合をはじめ漢方にも造詣が深かった家康は寸白の虫(サナダ虫)による腹痛と自己診断した。このため宗哲が処方した薬を服用せず、寸白に効果のあるる自家製の万病円と銀液丹を飲んでいた。暫く静養して24日に駿府城帰着したが腹痛は治まらず、2月1日江戸から秀忠が見舞いにかけつけている。この頃、宗哲も病状の悪化を見かねて、自家製の服用を止めるように直接家康を諫止したが、その逆鱗に触れて信州高島に流された。
 3月に入ると病は更に進行し、痩せ衰えて顔色も悪く湯漬けや茶漬け、粥といった消化の良いものしか口にできなくなっていた。17日に朝廷より太政大臣叙任の勅使が駿府城に来駕してた時も、勅使に対面する体力が喪われていた家康は、奥御座之間に臥したまま宣旨をうけている(21日太政大臣叙任)。
 4月2日、先が長く無い事を悟ったのか、側近を招集して死後の処置を指図。5日になると高熱を発し、大量の痰を喀出するようになる。この頃から大名公卿が見舞いのために絶えず駿府城に詰めかけており、駿府城にいた秀忠も連日応対に追われた。11日以降は白湯をほんの少し飲む程度で食事をほとんど摂らなくなり、16日には水分をまったく口にしなくなった。

 4月17日巳の刻(午前十時頃)、駿府城にて薨去し75年の生涯を終えた。『東照宮御実紀』によれば辞世の句は「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」の二首を詠んだとされる。その死後、駿府久能山の山頂に神葬された。当初、吉田神道の神事作法によりまつられていたが、家康の側近で山王一実神道を推す南光坊天海の強い意向が認められ、3年2月21日、朝廷より「東照大権現」の神号を勅賜された他、4月8日、久能山から下野国日光山に改葬された。家康が神事作法に並々ならぬ関心を寄せ、死後の自身を神としてまつられる事を強く望んだのは事実であろうが、一連の改葬が遺言に基づくのか否かの信憑性については謎が多い。
 乱世を終息させるとともに太平の礎をつくった一大英雄である事に疑う余地はないが、自ら築いた幕府によってその存在は15代続く将軍権力の思想的武器となると同時に、薄れゆく人々の記憶の中で神聖化の度合いを増幅させ、幕末に至る迄おびただしく粉飾化される運命を背負うこととなった……。
[ 2012/03/09 22:16 ] 歴史人物 | TB(0) | コメント(-)